花のうた

日記

ゆらゆら

2023.8.19(本当は20になってしまったところ)

 

しばらくずっと鬱がひどくて、それまで働いてばかりだったのに急にぽかりとお盆休みが入り、そうしたら少しだけ元気がでて、なんとなく日記が書きたいなあと思うようになった。一方的に好きなTwitterのアカウントのひとが、日記をつけているからかもしれない。自分のいちにちを、整頓したい。できれば美しく終えたい。

 

いつ頃からかは忘れてしまったけれど、ずっと書写をしていた。好きで買った便箋に、好きなインクと好きなペンで、好きな文章を書き写して、最後にその晩どんなお茶を飲んでいたのかと、今日はこんな事があった、と、書いていた。そういう習慣があったのに、今の仕事になって、夜がとても遅くなって――とてもというのはほとんど日付が変わる時間だったり、いっそ日付が変わってから帰宅するようになったので――とてもゆっくりとした時間がとれなくなったから。すごくつらかった。お風呂というか、シャワーを浴びる事も出来ずに眠りに就いて、あわただしく起きてシャワーを浴びて仕事に行ってまた眠る、そういう暮らしをしていた。

 

なんとなく仕事が落ち着いて、辞職の意思を伝えた。夏の間に辞められるようになったけれど、最近それも危うい。なんとか辞めたい。でも落ち着いたから、遅くなっても23時には帰宅できるくらいになって、ほんの少しだけ余裕ができた。

 

自分の部屋には、すきなもの、があふれていて、今のとくべつなお気に入りは、朝はサンキャッチャーで、夜は間接照明とキャンドル。

朝、だいたい七時ごろ。日当たりのいいわたしの部屋には、光が降り注ぐ。きらきら、ゆらゆら、とても綺麗。窓のむかいの壁には、頂いた書写がいちめん飾ってあって、だから、文章がきらめいていて、その文章の中には私の書いたものもあるので、なんだかスポットライトかなにかのように見えて言葉にならない。

夜は、100円ショップで買った、ワイヤーとクリップの間接照明。あと、キャンドル型のライトがふたつ。キャンドル型のライトが、とにかく愛らしい。少し溶けたキャンドルの形をしている。かわいい。壁につけたワイヤーとクリップには、好きな版画家のポストカード(誕生日に、友達がくれた)を、ワイヤーには、壁いちめん、から、少しうつした、好きなひとの書写。

書写はたとえば宮沢賢治の「報告」や、北原白秋の「言葉」、島崎藤村の「明星」に、萩原朔太郎の「贈り物にそへて」、高村光太郎の「梅酒」。太宰の「斜陽」「女生徒」の一節、坂口安吾の「蒼茫夢」。「蒼茫夢」は、あえていちばん遠くに飾った。私を思い出す、と言ってくれた。

 

「君は夜道の街燈なんだよ。一途に何かを照さうとしてゐる、なるほどうるんでぼんやりと光芒をさしのばす。然し結局君を包む夜の方が文句なしに遥かで大きい。君を見るたびに街燈の青ざめた悲しさを思ひだすのだ」

坂口安吾「蒼茫夢」、青空文庫より引用

 

わたしはだれかの灯でありみちしるべになる星であるらしい。私の文章を自分の文章に流してくれたひとにとって。蒼茫夢は、実は読んだ事がないから、いつか読みたい。

 

夜の話に戻る。キャンドルの話もしたかったので。キャンドルとあわせて、キャンドルホルダーを、買ってみた。キャンドルもキャンドルホルダーもハンドメイドサイトだ。キャンドルは、星空のようなもの、蜜蝋のもの、それから今、雪の結晶のようなものが届くのを待っている。あとは100円ショップで買ったラベンダーの香りのキャンドル。わたしの夜のなんもかんも。

キャンドルホルダーは、メリーゴーラウンドの形をしている。火を灯すと、ゆらゆら、回る。金色の、四匹の馬。火もゆらゆら、きれいだ。ガラスのキャンドルホルダーもある。火をつけると、影がゆらめいて、きれい。

 

部屋の中に、そういうわずかでたくさんのものを宿す光がある、その事が好き。

 

飲んでいる薬はどんどん増えるし、ここで頑張ろうと思った仕事でまた鬱をひどくしたし、気分が沈んで何もできなくなるのに、仕事に行かなくちゃならないから、頓服を飲んで、本当は朝晩に飲む薬も飲んで、泣きながら電車に揺られたり、今だ、と、死ぬ事を考えたり、でも痛いのは嫌だしお金がかかるから、と、留まったりしながら、職場に辿り着いてしまう、そういう日々。生活だなんて呼びたくない。

私から、小説をとったら、何が残るのと思う。すくなくとも、仕事をするために私は生きたくない。私の本が、本屋さんに並ぶ、その日のために生きている。小説。詩も俳句も短歌も好き。言葉遊びは、言葉で遊ぶ、じゃなくて、言葉と遊ぶ、だと思ってる。北原白秋の「言葉」が好きなのはそういう事だ。

 

 

言葉はかわい。

綺麗な魔物、

小さな魔物、

生きてる魔物。

ひとつひとつかわい。

北原白秋「からたちの花」より「祭の笛」内「言葉」(新潮文庫)より引用

 

 

言葉ってとびきりに素敵だ。わたしはもう、昔みたいに言葉があれば分かり合えるとは思わないけれど、言葉があれば、綺麗な世界を作る事が――書く事が――できるとまだ思ってる。いつまでも思っていたい。

 

最近本を読む時間がるから、わたしの中に言葉が流れ込んでくる。タンクがいっぱいになる。体の中、頭の中、心の中。どこかにあるそのタンクがからっぽだと、わたしは何も書けない。満たされてる時に、一気に蛇口をひねるようにして、だっと書く、そういう時間が好き。小説が書きたいなあって、最近は思う。わたしの、魔法の世界を、書きたい。養母を亡くしたふたりの魔法使いの子どもたち、魔物の王と森で暮らす亡国のおひめさま、薔薇の庭園で暮らす花の妖精とその妖精たちのための庭師たち、人魚と悪魔と呼ばれて育った魔法使い。いつか必死に地図をひいた、わたしのなかの魔法の世界。きっと、書きあげたい。

 

本は、江國香織の「きらきらひかる」と「神様のボート」、それから川野芽生の「無垢なる花たちのためのユートピア」。今日は、「女生徒」を少し読んだ。乙女の本棚のものだ。乙女が、好きな、本。

 

わたしはもう28で、女の子、なんて、言うには、図々しいのかもしれない。でもずっと、わたしは女の子だ。明日何を着よう、ワンピースかな、あのスカートかな、レースのブラウスがあるな、とびきり可愛い靴を履きたいな、アクセサリーはきっとあのイヤリング、時計と、お化粧はどんな色で。ときめきを、抱くわたしは、でももう女の子とは呼べないのかな。わたし、そろそろ大人です、と言わなくちゃならないのに、女の子でいたい。レースを着たい。白いブラウス、綺麗なロングスカート、リボンのついた靴。香水。わたし、だって、女の子だもの。

 

鬱と、そうじゃない時と、私はゆらゆら、いろんな事を考える。しっかりした大人にならなくちゃ。自分が好きになれる女の子にしかなりたくない。泣きたくなるくらい、自分の中に差がある。わたしを、わたしが、きちんと好きになりたい。

 

サンキャッチャーとキャンドルの話をしたかったのに色々書いてしまった。ずっと考えてたんだなあと思う、こんな風に自分の頭の中を整頓するのも久しぶりだ。明日は、教えて貰ったバクのアロマストーンを探して、プラネタリウムを見て、それから、文豪クリームソーダを飲む。だって太宰は、「女生徒」がいっとう好きだから。9月には、だいすきなフォロワーさん、おともだちって言いたいような方と、「銀河鉄道の夜」のクリームソーダを飲む約束をした。なんだか急に魔法使いの約束の話がしたくなった。でも、そろそろ眠りたいから、おしまい。

 

照明をしぼった部屋の中、柔らかい光はワイヤーとクリップ、キャンドル型のライト。メリーゴーランドのキャンドルホルダーの中のキャンドル、ガラスのキャンドルホルダーに入れたラベンダーの香りのキャンドル。友達に貰ったハーブティーを飲みながら、飲むのを忘れながら、今日の日記、でした。

 

わたしの部屋の、ゆらゆら、朝も夜も素敵だよ。

また明日、日記が書けたらいいなと思いながら。