花のうた

日記

わたしだけはわかってるからね

2023.9.15

 

最近朝が早すぎる話を母にしたら、朝に散歩にでも行って来たら、と勧められたので、近くの公園まで散歩に行って来た。大きな自然公園で、オエぬいさんとたくさん写真を撮りながら歩いた。1時間くらいかな?けっこういい感じがした。たまに銀杏トラップがあってひょこひょこしたくらい。またやりたいかも。

 

今日はTLで太宰の文章に出会った。

 

Xユーザーの青空の抜粋室さん: 「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。"太宰治『葉』」 / X (twitter.com)

 

太宰は「文豪とアルケミスト」をやり始めたのがきっかけで読むようになった。乙女の本棚シリーズの「女生徒」がとても好きで、太宰の本はどんどん増えた。太宰の書く女性があまりに偶像じみていて好きだった。わたしの好きな女の子だった。おろかしくて可愛らしくてみじめでいじらしい。それだけじゃないのよ、って言いたいような女の子たち。わたしそんなものじゃないのよ、みたいな、そんな女の子たち。

 

さっきのツイートは青空文庫からの抜粋のbotのアカウントで、書写をしてる時なんかによくお世話になってる。ちょっと探しあてられなかったんだけれど、太宰はこれと似通った事を「斜陽」で書いていて、仕立ててくれた着物を棺に入れてね、みたいな事を、弟が姉に宛てた遺書に残している。

 

太宰は「人間失格」なんて掴みの良すぎる代表作があるせいで、わたしもしばらく寄り付かなかったし、誰にも勧められなかった。だけど一度読んでみると虜になってしまって、「女生徒」も「斜陽」も、「きりぎりす」「駆け込み訴え」「千代女」「人間失格」、とにかく色々読んで、物語は勿論なんだけど、意外にも太宰は随筆のようなものでその柔らかさを多く残している事を知った。

 

たとえば、「思案の敗北」。

私は、いま、多少、君をごまかしている。他なし、君を死なせたくないからだ。君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。君が生前、腰かけたままにやわらかくくぼみを持ったクッションが、いつまでも、私の傍に残るだろう。この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。神も、また、この空席をふさいで呉れることができないのである。ああ、私の愛情は、私の盲目的な虫けらの愛情は、なんということだ、そっくり我執の形である。

(太宰治「思案の敗北」青空文庫より)

 

たとえば、「織田君の死」。

織田君! 君は、よくやった。

(太宰治「織田君の死」青空文庫より)

 

たとえば、「如是我聞」。

ためになる。
それが何だ。おいしいものを、所謂「ために」ならなくても、味わなければ、何処に私たちの生きている証拠があるのだろう。おいしいものは、味わなければいけない。味うべきである。しかし、いままでの所謂「老大家」の差し出す料理に、何一つ私は、おいしいと感じなかった。
ここで、いちいち、その「老大家」の名前を挙げるべきかとも思うけれども、私は、その者たちを、しんから軽蔑けいべつしきっているので、名前を挙げようにも、名前を忘れていると言いたいくらいである。
みな、無学である。暴力である。弱さの美しさを、知らぬ。それだけでも既に、私には、おいしくない。

(太宰治「如是我聞」青空文庫より)

 

 

「思案の敗北」は断片集のようなもので、そのメモ書きのひとつにこんなにも優しさを残していると読むたびにすこしずつ泣いている。「織田君の死」は織田作之助の追悼文で、そう長くはない。そして湿っぽくなくて、ただただ称えているような文。それで「如是我聞」なんだけど、わたしは読むたび笑ってしまう。分かり易い不満!暴発!喧嘩上等!

 

どんな面も太宰の一面で、多角の鏡の内側にあった太宰の事なんてわたしには何もわからない。研究してる訳でもなし、ただのいち読者でしかないから。でも、さみしいひとだ、それがわたしにはわかる、わたしなら撫でてあげるのに、そんな風に思わせる才能のあるひとだったのだろうなと思ってる。だって小説を読んだだけでそう思う。随筆なんて読んでしまったらそれを確信してしまう。どうしようもないひと!でもわたしはわかってるからね。そういう天才。

 

久しぶりに太宰読みたくなったな~今日は「斜陽」でも捲りつつ寝ようかな?もう眠すぎて…朝が早いから…めちゃくちゃな早寝早起き生活してるね…明日は普通に起きたいね…。