花のうた

日記

願い

2023.12.01

 

12月になっちゃったの!?うそ!?みたいになる。今年も早かったなあ。

 

この間姉と会った時にマリア様のペンダントが欲しいと話していて、母が持っていた「不思議のメダイ」を譲っていた。どちらかというとご先祖様とか日本の神様を信じてるんだろうなと思ってたのでびっくりしたけど、それより母もなんで持ってんの!?とびっくりした。そんな都合よく。ちなみにお友達からのお土産だったらしい。

 

わたしは宗教はどこにも属する事が出来ずに終わりそうなんだけど、やっぱりそれなりにプロテスタントの教えの場所に属していたので手を合わせるよりも指を組んで祈る方がしっくりくる。誰かの何かを祈る時も、浮かべるのはご先祖様とか日本の神様、仏様とかじゃなくて、イエス様の事を考える事が多い。でもわたしはやっぱりどこにも属してない人間なので、宗教というものの姿を作品から見てる。最近だと三浦綾子「母」とか。

 

それこそプロテスタントの学校だった中学に通ってる頃、遠藤周作の「沈黙」で読書感想文を書いて、それがまあまあな記憶として残ってる。中学生にこんなもん読ますなとずっと思ってたけど、今にして思えば、あれはキリスト教を学ぶ人間(だった)として一度読んでおくべきだったのかもしれない、とも思う。こういう時代があったんだっていう、あれは一種、歴史の勉強だったのかな、と。

 

「沈黙」の下地があったせいかわたしがあらゆるキリスト教の絡む作品を見て感じる事は「人間は愚か」だっていう事。愚かなのは人間、で、その愚かさは限りない、そういう事ばかり思う。でも愚かなばかりのひとじゃなかったでしょ、とも思う。たったひとつ理由が出来てしまったがために愚かになってしまう。そういう風にして今の時代があるんだね、って思うと、やっぱり愚かだったなあって思ってしまう。

 

誰かを慰めるにもわたしは神様の力を借りたくなる。何かひとつ、たとえばごはんが食べたいからとか、それこそあの人がぐっすり眠れますようにとか、そういう風にクッションを挟むみたいにして、願いを神様に託してしまいたくなるんだと思う。いつまでたっても地上の人間が愚かで申し訳ない。どうにかやっていける人間達になれますように…。